大は小を兼ね、超大作は入門をも兼ねる」
名盤と名が付くものはみんなそうだと思いますが、そのボリュームや高度な音楽性・思想性と共に、初心者でもわかりやすいポップな面と、両方を兼ね備えているものです。
1976年発表のスティービーのこの大作はその最たるものだと思います。オリジナル・アナログ盤は2枚組+4曲入りコンパクト盤1枚で、手にするとずしりと重いまさに超大作でした。高校1年の時でしたか、最初は友人から借りて聴いた記憶がありますが、内容の重量感に武者震いしながら聴いたものです。
愛には愛が必要なんだ、と、真摯に力強くありながら、優しくなめらかな歌い出しから始まる1曲目「Love's In Need Of Love Today」。人生が辛く感じたら、行って神と話してごらん、という「Have A Talk With God」。クラシカルな舞曲のアレンジをストリングス(実はスティービー一人で某日本製キーボードによる多重録音であるが)のみで歌い、スラム街の悲惨さを反語的に皮肉る「Villege Getto Land」。ウキウキするリズムでデューク・エリントンを賛美し、黒人としてのアイデンティティーと誇りを歌った「Sir Duke」。強烈なダンスビートでワンパクだった幼年時代に思いを馳せる「I Wish」。わが子可愛さを歌っても、なぜか世代を繋ぐことの偉大さと種としての人類愛までに昇華させてしまった「Isn't She Lovely」。黒人やインディアンやアジア系などの偉人達にスポットをあて、人種平等の主張をさらに深化させた「Black Man」。宗教的な、それこそ無限の愛を歌った「As」……。枚挙にきりがありませんが、どれもこれも、思想的にも音楽的にも超ヘビー級な内容をもちながら、それでいてこれだけポップで楽しく聴けてしまいます。
ロック/ポップスの宿命でしょうか、音楽に思想をこめると、曲調が暗く陰湿になったり、理屈っぽい歌詞先行でメロディーがなおざりになったりしますが、スティービーはこのアルバムに限らずそれが皆無なのです。さらに、作曲/アレンジが音楽的にあまりに高度だったりすると、曲のポップさは失われ、難解な無味乾燥な音楽になってしまうものですが、この点に関しても、スティービーはやはり天才的です。R&Bをルーツに、ジャズや、あるいはロックや昔の白人ポピュラー、果てはサルサやサンバまで取り込み、極めて独自で高度な音楽性を展開しながら、ポップのツボを決してはずしません。
この「高いレベルを保ちながらのバランス感覚」ということは、文章にすると簡単ですが、世界中一体何人のミュージシャンが獲得できるでしょうか? いや、音楽にかぎらず小説など「ものをつくる」行為すべてにおいて、この「ポピュラリティーと自己主張との相克」の問題は常についてまわります。それを考えた時、平易なポップさと高度な思想性・音楽性を完璧に両立させたスティービーの偉大さはどうでしょう!
スティービーの音楽を聴いていると、私はいつも「広大な開放感」を全身に感じます。
うっそうとした森から急に大平原に出たような、すがすがしい開放感。そして心地よい自然のにおいが、私にはするのです。これはロックや、他のソウルのミュージシャンでは味わえない感覚でした。
この感覚の秘密はなんなのか。彼の朗々としたヒューマンなボーカル、リズムとダンスにこだわる彼の黒人としての熱い血、先に述べたポップな曲創り、等など、それらの相乗作用の結果なのでしょう。でもそれだけでは、自分で自分の感覚を説明するのに、納得ができないでいました。何かが足りない。
歳を経てスティービーの音楽を聞き込むうちに徐々に見えてきたカギは「リズム」と「録音方法」でした。
このアルバムでも、彼はドラムス、キーボード(含シンセ)及び得意のハーモニカと、全部の楽器を一人で演奏し、多重録音の手法で何曲かを仕上げていますが、そのせいかその音楽は、バック・ミュージシャンを使って演奏させた一般のソウルのグルーヴとはかなり違う仕上がりになってます。
こう言ってはまずいかもしれませんがが、一言で言って「下手」なのです。リズムが、あっちへふらふら、こっちへふらふら、揺らいでさえいます。
この原因は、スティービーの楽器のウデ…特にドラムスが、専門職に比べて弱いせいもありましょう。がしかし、彼の独特の録音方法のせいもあります。彼は、最初にキーボードを録音し、ドラムスは後から録音して「あてはめ」でいく、普通とは逆の手法を取っているらしいのです。
恐らく、スティービーはキーボードを使って曲を創りあげた瞬間に、そのイメージのまま録音に入るのでしょう。天才故のせっかちな手法で、正直落ち着かない演奏と言わざるを得ません。
しかし私は、逆にこの>不安定さ・おおざっぱさがが、あたたかい、人間味にあふれた、自然のにおいさえ感じさせる結果として、プラスに働いている面もあると思うのです。怪我の功名ですが、音楽は、楽器のウデよりアイディアで決まるのだという証明の、きわめてよい例だと思うのです。
さらにリズム面についてはもう一つ特徴があります。それは、スティービーの音楽全体に観られる「ラテン音楽」からの深い影響です。
これについては、同時期に流行したフュージョン・ミュージックからの間接的な影響も大きいでしょうが、スティービーは何曲か、本物からインスパイアされたような本格的なラテンリズムの曲も書いています。一番顕著にサルサからの影響をあらわにした本作の「Another Star」を始め、本作ではありませんがスタンダードになっている「You Are The Sunshine Of My Life」におけるボサノバの影響などなど。
普通のソウル系のグルーヴとラテン系のグルーヴの違いを文章で伝えるのは難しいので困りますが、
同じ横の振幅感でもサルサやサンバ等のラテンのグルーヴの方が、振幅が大きくかつ緩やかで、おおらかな印象を受けるのです。より土着的というか、自然な土のにおいがする。このグルーヴ感の違いを本能で「面白い」と感じ、自分の音楽にどしどし取り入れたスティービーの感覚の鋭さも天才的ですが、それが結果的にスティービーの音楽を、他のソウル・ミュージックの作品と比べて「まろやかで人間的で、広大な自然のにおいがする」方向へと向けている原因のひとつになっているのではないでしょうか。
さらに、自分のルーツとは違った音楽を取り入れることで、音楽全体の幅というか印象がますます「広大さ」を増す感じがします。インターナショルという言葉感覚・イメージと相まってはなおさでしょう。
前述した「音楽と思想の問題」に話を戻してもう少し言わせて下さい。
音楽に思想を持ちこむことについては、その思想自体が聴衆に大きな影響を与えるという点で危険を伴う場合もあります。ことによればマインド・コントロールすら可能なのです。スティービーの場合の思想はキリスト教に根ざしたものであり、危険なものとはいえないでしょうが、人によっては彼の「愛を解く」姿勢そのものに拒否反応が出ることもあるでしょう。正直私なども、彼が来日公演などで、日本語で「とても愛してます」を連発するくだりどは赤面し、彼を疑う瞬間もありました。
しかし、冷静に思い直して頂きたいのです。彼は「愛しています」と言わないと「世界」を…「他」を実感でいないのです。そして、その答えを確認しないと、まるで赤ん坊のように不安なのです。なんとなれば、彼は目が見えないのだから……!
暗闇にほうりだされた彼の、幼少期から青春期の不安はいかばかりだったのでしょう。それは想像するしかありませんが、それこそ「神も仏もあるものか」という、自暴自棄の状態であってもおかしくはありません。幸い彼は「音楽」をやることでそれを切り抜けられたのでしょう。幼少期から盲目の天才少年として芸能界でもてはやされ、栄光の人生ではあるが、厳しいエンタテイメントの世界です。つらさ悲しさも倍であったのではないでしょうか。実際、デビュー当時のつらいコンサート・ツアーの時にスティービーは故マーチン・ルーサー・キング牧師に逢い、その思想に生涯影響を受けるようになります。
その後に、スティービーは交通事故で生死をさまようほどの重症を負います。このことは彼自身がが言っていることですが、「事故にあったことで、神によって生かされていることが実感できた。同時に、世界と自分がつながっているということも実感できたんだ」と。
このスティービーの宗教体験について、ここで云々することはしません。それは彼のきわめて個人的な問題であるし、我々は、その体験を通じて彼が紡ぎ出した音楽の方を問題にすべきだと思うからです。
ただ、私が言いたいのは、スティービーの言う「愛」とは、今あげたような彼の人生体験・思想体験の末にたどりついた、壮絶な内的戦いの結果である、ということです。この事実は揺るぎません。スティービーの博愛主義をわがものとして受け入れるかどうかは別にして、彼の愛を歌う姿勢そのものを「うさんくさい」として否定することだけは、絶対にできないと思います。断じて彼は、人間性のすべてを賭けて表現している。それに向き合う我々は、彼の音楽に対してどう責任をとるべきなのでしょうか?
独断と想像も含めていろいろ書いてきましたが、スティービーと同時代に生を受けたことを、私は神に感謝しています。ビートルズはその旬を体験できなかったが、スティービーは体験できた。それだけで、私は本望です。60年代はビートルズ、70年代はスティービーの時代という、ある人の言葉は、ロックファンには抵抗があるかもしれませんが、私は完全に支持します!(1999.2.27)
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